植松 聖という人が起こした事件が7月にありました。
障がい者に対する世間の感じ方なども垣間見える事件でした。
世間との距離を感じつつ、別に隠れているわけではないけれど、どこかひっそりとした佇まいで日々の暮らしを営んでいる、我が家と同じような家庭が、同じく家族に障がい者を有する人たちの中で存在していることを知りました。
重複障がい者がターゲットになった事件でしたが、犯人は「障がい者はこの世からいなくなればいい」と考えていた人ですから、障がい者全体に対する考え方が問われるようになりましたね。
私が世間に対して思ってきたことは、偏見を持たれているなぁとか、差別されているなぁとか、そんなことではなくて、「自分の家族に障がい者がいなければ、分かり得ないことはある」ということでした。
娘が生まれる前までの私は、偏見や差別心こそありませんでしたが、障がい者や障がい者施設などのことを、「よく知らない世界」として、どこかぼんやりとした印象でとらえていたように思います。
自分だってそうだったのだから、世間の人が障がい者について無関心だったりすることを、非難するのもおかしいし、わかってくれないからといって悲しむのもどうかと思っていました。
報道では、実名報道を望まないご家族のことを、差別や偏見にさらされるがゆえに、隠れようとしているかのようなとらえ方をしているようでした。
もちろん、そういうご家族もいるかとは思いますが、私のように、「どうせみんながわからない世界のことなのだから」と、あきらめてしまっている人もいるのではないでしょうか。
会話の中で、娘が支援級に在籍しているとか、障がいがあるとかいうことを伝えると、そのことには何も反応せずに黙ってしまう人を私はたくさん見てきたし、私と同じ経験をしている障がい者家族の方は世の中にたくさん存在しているだろうな、と思います。
相手は、差別や偏見で黙ってしまうのではなく、「よくわからない世界だから何も言えない」という感じなのかと推測しています。
SNSやヤフコメ、2ちゃんねるなんかは今回の事件を語る際、「障がい者はいらなくて当然」的な発言をしている人も多いですね。
それに対して、私は憤りを感じたりはしませんが、安直な思考ができて、さぞかし生きるのが楽だろうなと思います。
「人間は考える葦である」とパスカルも言っていますが、年齢を経て、たくさん情報や知識を得てしまうと、なかなか物事を簡単にはとらえられなくなるものですね。
そもそも、「誰が必要な人で、誰が有用な人なのか」という問題はとても哲学的で、簡単に答えが出せることではありません。
私は自分自身に障がいなどありませんが、自分が有用な人間だと言いきれなかったりします。
学生時代もう1ヶ国語勉強しておけばよかったとか、もうちょっと機転が利く人間だったらとか、後悔もあるし、自分の性格が大好きとは言い難かったりします。
優生思想の代表、ヒトラーだって「自分にユダヤの血が混じっているかもしれない」とおびえていたし(ヒトラーの父が私生児だったからルーツが曖昧)、同じことが、ハイドリヒ、ローゼンベルク、シュトライヒャーなどたくさんのナチス幹部にも当てはまったりします。
健常に生まれてきても、人はいつ障がい者になるかわからないし、物事は一面だけ見て切り捨てることはできないものですね。
関連記事(1):「ナチスからアスペルガー症候群の子供達を守ろうとしたハンス・アスペルガー」
関連記事(2):勇気と行動力のある先生。Eテレ 地球ドラマチック「ナチスに立ち向かったユダヤ人先生」を見て
関連記事(3):NHK ETV特集「“戦闘配置”されず~肢体不自由児たちの学童疎開~」を見て
読んで下さってありがとうございます。よかったらシェアをお願いします。
http://ryoiku.mamagoto.com/%E7%99%BA%E9%81%94%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/yamayurien津久井やまゆり園の事件から2ヶ月