昨日のNHK Eテレ ETV特集は、「“戦闘配置”されず~肢体不自由児たちの学童疎開~」というテーマでした。
現在の特別支援教育が実現されるまでに、どのような道筋を辿ったのかを知る機会になりました。
今年の6月に、千曲川が流れている長野県の山間の町で、秋山さんと小林さんは69年ぶりの再会を果たしました。
太平洋戦争末期から戦後にかけて、2人を含むおよそ50人の肢体不自由児たちがこの場所で疎開生活をしていたそうです。
日本で初めて昭和7年に開校した肢体不自由児のための学校・「東京市立光明学校」の子どもたちです。
世田谷区にある光明特別支援学校では、2年前の創立80年を機に、古い文書や撮影フィルムなどが相次いで発見されるようになりました。
戦時中の光明学校の校長である松本保平さんの手記も残されています。
この手記には、肢体不自由児の境遇についてのいろいろな出来事やそれに対する憤りのような気持ちが綴られていました。
空襲を避けるために実施された都市部の子どもの「学童疎開」ですが、はじめは肢体不自由児は対象とされませんでした。
仕方なく、光明学校では校庭に防空壕を作り、学校で集団生活を送る「現地疎開」を実施しました。
なぜ肢体不自由児が学童疎開の対象とならなかったのかといえば、国策としての学童疎開の目的は、将来の軍事力を担う子ども達を「戦闘配置」するためであり、戦力とならない肢体不自由児は将来の戦力とはみなされなかったからです。
松本校長は光明学校も集団疎開できるように東京都へ直接かけあいましたが、都は一般学校の疎開事務に忙殺されていて、光明学校には手が回らないという回答をしました。
松本校長が何度もかけあっても、同じ回答ばかりでした。
「肢体不自由児も、教育を受けることによって有能な社会人となる」と考えていた松本校長は、子ども達が国から差別されていたとしても、あきらめることはしませんでした。
「現地疎開」をはじめたばかりの光明学校を、視察にきた近くの国民学校の教員たちがいたそうですが、帰り際に松本校長に向かって痛烈な批判をしました。
「あなたは五体満足に生まれてきて、立派な体をしているにもかかわらず、このような子供たちの相手をして、毎日お腹いっぱい食べて、日光浴を楽しんでいる。
今、日本は非常時です。我々の同胞は極寒の満州で飢えに耐えて戦っているのです。あなたは申し訳ないとは思わないのですか。良心に対して恥ずかしくはないのですか。」
松本校長は情けない気持ちになったそうです。
戦時中、肢体不自由児に教育を与えることが無駄であると考える人は多かったのです。
肢体不自由児が学童疎開の対象とならなかったことは、このような考えも背景にあったからかもしれません。
昭和20年3月の東京大空襲を受けて、松本校長は「ここはもう安全ではない」と、疎開先を自分で見つける決意をしました。
そして、東京からの疎開者が最も多かった長野県を訪れたところ、温泉地である上山田村に「空きがあるかもしれない」と紹介されたそうです。
そこで松本校長は上山田村を訪ねたところ、村長が会ってくれませんでした。
松本校長がどんなに粘っても、「疎開の話なら一切聞かない。もう空きはない」と言って、断固として会おうとしなかったそうです。
松本校長は、村中の旅館やホテルに直接お願いにまわることにしました。
しかし、そこでも断られてばかりで、なかなか話が進みません。
松本校長の熱心さを見ていた温泉組合の役員の人たちは、村長に、「会ってみてはどうか」と話をとりなしてくれました。
村長が重い腰を上げて、松本校長との面会が実現します。
松本校長は、「光明の子供たちを受け入れてほしい」と懇願しました。
結局村長は、松本校長の一途さにほだされて、受け入れを認めることにしました。
疎開のために、村長が経営する宿を貸してもらえることになったそうです。
疎開先が決まったら、次は上山田までの移動の手段を確保しなくれはなりません。
普通学校の疎開では、東京都が列車の手配をしますが、光明学校は自力でやらなくてはなりません。
松本校長は、鉄道局に3日通い続けて、なんとか客車1両を貸し切ってもらえることになりました。
さらに、子供たちの治療器具の輸送手段も考えなくてはなりません。
松本校長は、学校近くの陸軍の部隊長に直訴しました。
「本土決戦になった場合、肢体不自由児は足手まといになります。
この児童がなければ、それだけ戦力が増強します。
ぜひ、引っ越しに手を貸して下さい。」
松本校長は、軍の協力を引き出しやすくするため、あえて「足手まとい」という表現を使ったのです。
それによって、トラック10台で大きな治療器具を運搬してくれることが決まりました。